函館でロシア貴族と結婚してインドネシアへ行った女性
今から数年前、古い新聞をみていた時に、こんな見出しが目に留まった。「その昔函館から消えた美人/今は南島に輝く女王/碧眼の伯爵とジャワの密林に/豹と戦ふ美女」(昭和8年9月2日付け「函館日日新聞」)
まるでソフィア・ローレンかジェーン・フォンダあたりが主演の映画の広告のようである。この新聞のヒロインは、函館生まれの三輪秀子、碧眼の伯爵とは、亡命して函館で暮らしていたロシア人N・グラーヴェという人物である。
新聞によれば、三輪秀子は情熱的な女性で、妻を失った税関長との交際に傷つき、小樽高等商業で教鞭をとっていたネフスキイとも恋に落ちたが破局したなど、ずいぶんドラマチックに仕立てられていた。どこまで本当なのか真偽はわからないが、その後、「革命の故国から北海道に流れ着いたロシア貴族と知り合い、しいたげられたる者と弱き者とが手を取り合って結婚、ジャワの奥地で原始林を切り開き、6人の子を育てている。丸木小屋の屋根には竹竿にくくりつけたロシア帝政時代の国旗がひるがえっている。日本に帰らず南洋の土になる決心のようだ」と、やはり映画のワンシーンのような描写が続いているのである。
コピーこそとったものの、この時はあまり調べてみたいという気もおきず、いつしかこの話は私の記憶から薄れていった。
昨1999年春に、石橋恵子さんという女性が訪ねてこられた。サンフランシスコで暮らしていたが、実家の事情で、函館にもどってきているということであった。彼女の用件は、サンフランシスコで勤めていた会社の社長が、自分のルーツを調べていて、その代理で調査をしているというものであった。話をうかがうと社長の祖母は函館の人で、亡命ロシア人と結婚してインドネシアに行ったというのである。私は、すぐに例の新聞「南島に輝く女王」を思い出した。三輪秀子さんというのでは…と切り出すと、まさにそうだという。
依頼主である社長の名前は、Vladimir R.Graveさん(グレーヴではなく、グラーヴェと読む)。サンフランシスコで、オーリツ・コーポレーションという会社を経営されている。食肉を日本に輸出したのを皮切りに、ギフト商品の販売、カリフォルニア州で和風の焼き肉レストランチェーンを経営するなどの成功を収められたそうだ。会社のパンフレットの写真を見ると、ウラジーミルさんのお顔はほとんど日本人のように見える。
お母さんは結婚のため、インドネシアから日本に渡り、そしてウラジーミルさんが生まれた。そのあと、お母さんとウラジーミルさんは、アメリカへ移住したということである。またインドネシアには、今も叔母さんがいるという。函館に誰か血縁のある人が残っていないかどうか、というのがこの度の具体的な依頼であった。
石橋さんは古い戸籍の写しを持参されていた。三輪秀子は、ヒデとなっていたが、三輪家の三女として明治35年(1902)に生まれたことが記されていた。父親は三輪持、母親はタキで、身分は士族とある。あとで、調べてわかったことだが、秀子の祖父も三輪持といい(つまり父親は名前を襲名した)松前藩の藩士であった。
『松前町史』史料編1巻の「御役人諸向勤姓名帳」によれば、嘉永6年(1853、すなわちロシア遣日使節プチャーチン艦隊が長崎に入港した年)に、寺社町奉行として三輪持の名前がみえる。彼女の祖父は上級役人であったのだ。後日インドネシアから母親に宛てた手紙に、「父の顔へ泥をぬるやうなことはしないから」と認められていたそうだが、それはこういう家柄であったからなのだろう。
さらに興味深いことがある。それは未だ日露間で国境の定まらないサハリン島でのことであった。1853年9月、松前藩の樺太経営の拠点であった久春古丹(クシュンコタン、現コルサコフ)が、ロシア兵の占拠するところとなり、このことを知った松前藩が使者として派遣したのが、三輪持と氏家丹右衛門であった。出発に際し、時の藩主崇広は、二人の率いる藩兵たちに対し、穏便に取り計らってこちらから戦争を仕掛けないように、もし仕掛けられたらば「日本国の御武威拘り候事故、一統 死力を尽し…妻子の儀は我等預り候間安堵さすべく候」と、悲愴な申し渡しをおこなったという(秋月俊幸『日露関係とサハリン島』より)。
こうして、翌1854年の春に島に渡った三輪持は、現地の指揮官ブッセに面会したり、プチャーチンが派遣した「オリヴーツァ」号や「メンシコフ」号(これには、ポシエット中佐が乗っていた)などを迎えたりしているのである。ここで彼はポシエットから魯西亜応接掛の筒井・川路宛の手紙を託されている。まさに、日露交渉の前線で働いていたのであった。
それにしても将来、自分の孫がロシア人と結婚することになろうとは、ゆめゆめ思わなかっただろう。
話が横道にそれてしまったようだ。ルーツさがしに話をもどすと、結局三輪家の血筋の方は、どうも函館周辺にはもういらっしゃらないようだった。しかし、秀子の母方の親族が松前町にお住まいであることがわかり、連絡がとれて一件落着ということになった。
私がさらに知りたいと思うことは、秀子の夫グラーヴェについてである。今のところ正教会にある結婚時の記録と、地元の雑誌に掲載された記事だけが手がかりである。結婚は1920年11月28日、彼が34歳の時で(秀子は19歳)、肩書きはロシア語で世襲貴族、日本語で露国華族とある。盛大な披露宴が五島軒(函館きっての老舗レストラン)でおこなわれたという。函館には、いつからいたのか不明だが、グルシェツキー商会というロシア系の会社に勤務していた。そして結婚してまもなくインドネシアに渡ったのである。
ウラジーミルさんが、お祖父さんについてどの程度ご存じなのか、ぜひ教えていただきたいと思っている。
追記 この文章を「異郷」に掲載することについてご了承を得ようと、ウラジーミルさんに連絡をとったところ、お祖父さんは、近衛隊の士官であって、作家トルストイと親交があったことなどがわかった。このことも含め、詳細については、また別な機会にふれたいと思う。